いろんな体験が多層的に起きて、それがきっかけで、そこに至るのだけれど、
やっぱり、原体験的に大きかったのは、父親が退職一週間前に脳卒中で倒れたことにある。
以後、リハビリをしようにも心臓がすでに高血圧で肥大してへばっており、過度な負荷は不整脈を誘発するからと、全く社会復帰できずに、6年間に及ぶ介護の後に最期を遂げたことにあると思う。
その間の母親の介護への負担は大きく、実家の生活は一変し、介護中心の生活を余儀なくされたのだ。
父親が倒れるという、一つの事態から、それまで、幸せそうにあちらこちら山歩きを楽しみながら、シニアライフを過ごしてきた我が実家の両親の生活が一変してしまったのだ。
当時は、製薬会社のMRをして、日夜、高血圧薬や不整脈薬、急性心不全治療薬などを医師に紹介していたので、相当量の治療の知識があった。
なんで、こんなになるまで、放っていたのか、ちゃんと病状を把握してアドバイスしておけばよかったと、自分を責めたり、薬剤師である母親にもずいぶんきついことを言ったような気がする。
・・・父親のキャリアは、特に前半は本当に苦労の連続であった。
中学に進んだころに両親を失い、実家の兄弟は7人、その3人目の次男となれば、勉強することもままならず、すぐに工場に働きに出ることに。
それでも、自分は法律家になりたいとの夢を持ち、定時制高校に通い、苦労の末、東京に出てきて、働きながら、夜学にて大学を卒業し、何とか裁判所の仕事にありつくも、どうにも、その日暮らしの日々を続け、借金まみれとなり、もうだめだ、故郷の熊本に帰ろうとした矢先に、薬剤師で薬局を開局したばかりの母親と運命的な出会いをして、その家の養子になることでようやく生活が安定し、裁判所の書記官となる。
しかし、ここで終わらず、自分の志を貫き、40歳前にして再度司法試験に挑戦を始めるのだ。
当時、小学生だったけれど、それ以降、就業後に勉強会に通い、家でもお酒は控え、毎日勉強をしている姿は、今でも忘れられない。
結局、司法試験には何度かトライしたものの、受かることは無かったのだけれど、その努力と気さくな人柄が認められ、引き上げてくれる人脈にも恵まれ、40歳後半に簡易裁判所の判事となったのだ。
まさに、その努力の甲斐があって、見事に故郷に錦を飾ることに。
本当に父親を誇らしく思えた日々だった。
その後は、各地の簡易裁判所を2年~3年ごとに勤務し、行った先で仕事、趣味にと充実した日々を送れていたのだ。
しかし、やはり、判事という仕事は、責任もあり負荷もかかったのだろう。
また、加えてIT化の波の中、パソコンのスキルに全く追いつけず、居心地の悪い中、窓際に追いやられて行くことも実感していくことに。
時代の変化のスピードが変わってくる潮目に家族には言えない苦労もあったのではないか。
それが、体を蝕んでいたに違いない。
60半ばにして、本当に最期の勤務地にあえて行く必要があったのか?
いつまでも、仕事をしている姿を期待し、追いつめていたのではないか。
・・・今は知るべくもない。
私は、30歳半ばにこのような父親の姿を見たことで、沸々と自分の人生のあり方について、想いを寄せるようになっていた。
薬剤師の免許をとり、製薬会社の営業パーソンとして、それなりのキャリアを積んできており、家族もでき、何不自由ない生活を送れていた。
しかし、あれだけ、老後はあれをやりたい、これをやりたいと楽しみにしていたのに、何も実現できず、車いすで生活する父親の姿を見て・・・
人生、いつ何がおきるかわからない。
自分は本当にこの仕事をすることを一生続けていきたいのか?
そんな、問いがいつしか、自分の中に芽生えだした。
そう、ちょうど、父親が勉強に一念発起する年齢になってきていたのだ。
私は、その年、横浜に転勤になり、翌年から、私は自分自身、本当に何をしたいのかの探求のフェーズに入り、さまざまなことを学ぶ中からコーチングというものに出会ったのだ。
続く・・・
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