2015年1月15日木曜日

映画「風立ちぬ」をプロセス指向心理学的に見ると・・・

「風たちぬ」を見た方はどんな感想を持たれたでしょうか?


二郎と菜穂子の純愛物語、あるいは、ゼロ戦の設計者の半生の物語、その背後にある戦争に突き進んだ日本という時代を生きた人々の物語。


映像の美しさ、時代背景へのリアルさ、など、作品の仕上がりのすばらしさだけでも十分満足できる映画。


私は、見終えた時に、モヤモヤとした違和感を覚え、結局、この映画は、宮崎駿氏は二郎、菜穂子を通して、何を伝えたかったのだろう?


むしろ、そんな好奇心が湧いてきた映画であり、原作を買ってみたり、本屋で堀越二郎を紹介する雑誌などを手に取りたくなる。


そんな、衝動に駆られる映画だった。


一方で、ひょっとすると、それまで、半かじりしていた、

プロセス指向心理学(POP)のドリーミングの枠組みでとらえると、堀越二郎という人間の生きざまを理解する上で、わかりやすいかも。

と思うようになりました。

そして、むしろ、まだ、聞きなれない人に、POPの基本的な枠組みであるドリーミングとその三つのレベルを理解するのに格好の題材なのではと思えるようになったのです。


私はPOPの専門家ではないので、用語の細かい解説などは、ここでは、簡略しつつ、1学習者として理解した見解から、風たちぬの主人公、二郎の見ている世界を紐解いてみるという試みをしてみたいと思います。

※未視聴の方で結末を知りたくない人は以降読まないでね!


結論から申し上げると、

「主人公、二郎は、日本が戦争に向かって突き進むという時代の中にあって、妻菜穂子に象徴される自分の追い求める”美しさ”を、自らの夢でもある美しい飛行機を戦闘機という形で設計し、夢を実現していく物語である。」
(この文の中に、後述するPOPの三つのレベルが表現されています。)

ということだ。


二郎は、そのことに一切ブレずにその自分を生き切り、ゼロ戦を完成させる。

菜穂子も、愛する二郎とまだ病気が進行していない美しい自分だけを見てもらように、二郎とともに生きることに、生きる意味を見出し、その役割を終えると密かに去っていく。

しかし、夢を実現させたその戦闘機は、多くの若者を戦地に送り出し、戻るとこはなく、たくさんの悲劇を生むことでもあったのだ。


美しさの裏にある、現実世界のはかなさが、一層、ふたりの残された「今」を生きようとする、その生きざまを引き立てている。



POPの概念では、人が見ている世界は三つのレベルに分けられるという。

・エッセンス・・・感覚的にしか語られないような、本質的な願いにつながるゆらぎ
・ドリーミング・・・その感覚的なものを言葉やイメージで膨らませた内的な世界、夢見る世界
・合意された現実・・・実際社会の枠組みやルール、役割の中で生かされているという現実


これが、この映画では、そのまま、きれいに描かれているという点が、興味深い。


私の三つのレベルからの解釈では、


エッセンスを象徴しているのが菜穂子であり、一度、飛行機設計に失敗し、失意の中の二郎は、その美しさに触れることで、再び、自分を取り戻し、自分がもっとも自分らしくいられる存在を得たことで、現実世界に舞い戻る。

映画でバルコニーで紙飛行機を飛ばして、菜穂子とやり取りをする姿は、まさに、二人がダンスをしているように、関係性を紡ぎだし、かけがえのない存在になっていく場面だ。
そこには、言葉はいらない。
まさにエッセンスレベルでセンシングしているのだ。


ドリーミングは、言わずもがなのイタリアの設計技師との夢の中でのやり取り。
彼との対話の中で、自分が飛行機の設計に携われるのかという悩みを打ち明け、そこで勇気づけられることで、飛行機の設計技師となることを決意する。

そして、その後も、たびたび、その夢の世界のなかで、イタリア人技師という相手を通して、自らの求める”美しい”飛行機の原型を収れんさせていく。


合意された現実は、軍が期待する海上を長駆できる軽量の戦闘機(二郎にとっては夢でもある美しい飛行機)を設計していくという利害が一致したという現実。
戦争がなかったら、二郎の夢は実現できなかったかもしれないという現実。

たとえ、そうであろうとも、決して、悩むことなく、そこに自分の夢を託し、設計にまい進する。



POPのいずれのレベルでも”美しさ”という軸から一切ぶれず、まさに自己一致し、自分らしくあること、それに支えられることで、自分の夢を実現する。



もし、仮にかつての自分が二郎だったら、
合意された現実の中で、設計する飛行機が殺人の道具になることについて、悩み、葛藤していることと思う。そして、これが本当に自分が求めているものなのか?
と、自分の希求することに懐疑的になり、”今”を生きることが出来ないような気がする。


一方、別の見方をすれば、
彼のように、どこまでも、自分の夢を追い求めることに純粋であることで、知らぬ間に周りが引き寄せられて、結果としてチャンスが生まれてくるということなのか?


今の世の中、この合意された現実の中を生きていかなければならない。
夢を追及していたら、食いつぶれてしまう。
だから、合意された現実レベルを淡々と生きていくんだ。


でも、そのなかあっても、
自分に起きてくる言葉にならない「ワクワクな感じ」「胸がキュンとする」という、突如、風が揺らぐようなエッセンスレベル。
「こうなるといいなー」と思い描いた夢やビジョンというドリーミングレベル。


どこか自分の中にあると思う。


普段、気づかなくても、無意識に持っているんだ。



「風たちぬ」という映画をここまで振り返ってみて、やはり、映画の冒頭のこの一言に尽きるのかもしれない。


「風たちぬ、いざ生きやめも」(ポール・ヴァレリー)


あなたにも、もし、今、風がたっているのなら、その風に乗って精一杯生きてみてはいかがだろうか?


参考:
「風たちぬ」のあらすじはこちら


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