2014年11月29日土曜日

GEで流行ってる言葉、ピボット。

昨日の日経朝刊にGEのCEO、イメルト氏へのインタビュー記事が載っていて、興味深く読ませていただいた。

かの、ジャック・ウェルチ氏からGEの経営を引き継いで、もう、13年になるとは!
時の経つのは速いものです。
当時は、ウェルチ氏の本が経営本として、売れまくり、果たして、後継者は誰だろう?と揶揄されたものです。

そんな、ウェルチ氏の後を受けてのイメルト氏へのインタビューでは、後継者について、質問を受けて、「まだ、わたしは若い!」牽制しつつ、後継者としての求められる資質について、言及していた。

内容は、読んでもらえればと思うが、その中で、一つ面白いな〜と思ったのが、このブログのタイトルにも有るピボットという言葉。

ピボットと言うと、Excelのピボットテーブル、スキーでもピボットターン、なんてのもあるけど、ここでは、バスケットで、片足を軸にして、もう片方の足を右に左にと、一歩踏み出して、パスコースや次の展開を探る動作をビジネスの中にメタファーとして、持ち込んだ表現。

最近、よく使われる自分軸を持ちつつ、しなやかにその状況に応じて対応する「レジリエント」という言葉がビジネス界で流行っているが、同様の意味だと思える。

ただ、ここでは、しなやかに対応する以上に、軸はブラさず、でも、一歩踏み出して行動してみよう!という含意があるようだ。

より、行動を促していると言えよう!

マンモス企業の厳しさもあるだろうが、そんな企業でさえその姿勢を貫こうとしている。

翻って、私のあり方、どうよ!
って、見直さないとね!

小さいだけにね。大企業に小回りで負けてはいられないよね!笑



2014年11月28日金曜日

関係性へのコーチングを学ぶということ



コーチングを実践するうえで、大切なことはクライアントの持っている持ち味や可能性を100%信じて、クライアントの目指す目標や、その歩みをサポートすることといえるだろう。

私もずいぶんコーチングを受けて、勇気づけられさまざまなことに挑戦し、行動し、結果を振り返って成長を実感してさらなる課題に挑戦してきたと思う。

また、コーチとしても、クライアントのありたい姿やその可能性を認知して、その自分らしさから課題に立ち戻り、今までとは違う、自分を発揮できるよう、チャレンジしていくことを、熱く応援したものだ。

しかし、よくジレンマに陥ることがある。

特に、組織や家庭にかかわり、職場の空気を変えようとか、家庭内の関係を改善しようとする場合だ。

いくら本人が、自分の本来のありたい姿から、他者に影響を与えて、職場や家庭の雰囲気を変えようとしても、なかなか変えられない壁が存在するからだ。
でも、実際には多くの人がこのような壁に突き当たっているといえる。

それは、組織の中に内在する風土や文化、パートナーや家族の持つ固有の価値観といったことからの圧力に対して、個人があまりにも無力であることに依るように思える。

よく、コーチングを習いたての時は、それすらも、自らの無力さによるものと捉えて、何が自分に足りないか内省し、コーチにその気持ちを告げて
認知してもらい、目に映る世界を見直して、別の視点からアプローチをしたりしていた。

しかし、よほどいいきっかけがないと、同じ土俵で、その職場や家庭の関係について双方で、忌憚なく語り合うことってない。

どこか、押しつけになって、かえって壁を作られてしまう。コーチングを胡散くさく思われる瞬間だ。

結局、独りよがりで当たっては挫け、それを続けていくと、コーチング依存症が発症する。
コーチングのセッションが単なるグチを聞いてもらう場に変容するのだ。

私も罹っていた。長患い。そんな自分に堪えられなくなり、いつしか、コーチングから離れた時期があった。いや、今もコーチをつけていない。

本当に自分が心からその課題にコミットできる時期を今は待っている。そうしたら、コーチをつけようと。

そうでないと、何か言わされているような気持ちになり、また、同じことを繰り返しそうな気がしているからだ。

そうならないために・・・

今、自分が注目して学んでいるのが、CRRという機関の提供するシステムコーチングだ。
ORSC(Organizational Relationship System Coaching)の略号でオースクと呼ばれるコーチング。

要するに組織やグループ、家庭やカップルといった複数の人が織りなす関係性に向けて、関わるコーチングで、見方を変えると組織変革ファシリテーションのスキルともいえるものだ。

これまで少しかじってきたユング派心理学者のアーノルド・ミンデル氏の提唱するプロセス指向心理学やグループファシリテーションで提供されてきたエッセンスをきれいにまとめて、体系的にスキルや関係性の診たて方を提供してもらえる。

前から気になる存在であり、いつかは学ぼうと思っていたが、独立に当たって、このコーチングをしっかりと脇に携えながら、個人へのコーチングをすることで、個人への関わりとして、出来る限界を見極められ、その時には、他のアプローチとしてシステムコーチングを提案することも可能だろう。

しかし、いったん、個人にかかわった上で、その人と利害関係のある組織や関係性をシステムコーチングで見ていくと、どうしても、その個人の立場から見てしまい、公平な関わりができない。
関係者には操作されていると感じる可能性があるからだ。

その場合は、別のコーチに実施してもらうというのが、筋だろう。

とはいえ、そのような選択肢を持ち、クライアントができることの限界を感じた場合はきっといい提案が出来る。

コーチとしても、ジレンマに陥らずに済むというわけだ。

ORSCの応用コースはあと残すところ、1プログラムとなった。どの程度、使いこなせていけるか、楽しみなところだ。

そして、そろそろ、コーチをつけて、自分自身も目指す世界へドライブをかけていこう!


2014年11月27日木曜日

自分自身の多様性を感じてみる

組織の問題ってさまざまなところに存在していますね。

先日もお話を伺った方が、事あるごとに
「いや~、ウチの組織は全く機能していない。何せトップがねえ~。」
という感嘆文を差し込んでは、悩ましい顔をしていた。


過去に自分が見てきた組織と比較をどうしてもしてしまい、批判的になってしまう様。

「ある心理学の考え方では、そう見えている先方の姿の中に、自分が、あまり受け入れたくないと思っている自分を投影している。と診ているそうですよ」

「・・・?。」

「もしかしたら、今はたまたま、それを批判する側に立っているだけで、ひょっとして、その立場に立ったら、同じようにふるまう自分がいる。自分にもそういう多様な要素があると診てみるんですって。

自分にもそういう部分があるとして、もしも、それが自分にとって、これまで役に立ってきたとしたら、相手(=投影された自分)に対して、どんな気持ちになりますか?」

「でも、そうだとしても、それでどうすればいいんだ?」

「批判的に感じている自分も、投影された自分も、同じ、自分自身で欠かすことのない存在で根っこはつながっているのだと、統合して感じてみるんですって。」

「何か悲しい気持ちが湧いてきた・・・」


・・・返って、相手の方を混乱させてしまったかもしれない。


でも、その視点にたってみることは、この方にとって、きっと、必要なことだったのだろう。
そして、その知らせを届けたのが、たまたま、私だったということ。


しかし、そういった時点で、何かその方と私の間に距離が生じてしまったのではという恐れが私の中でうずめいてくる。

そう、それが私の中で前進を阻むもの(エッジフィギア)なのかもしれない。

お知らせ係が常に背負ってしまう、「知っている人」になって、周囲から距離を置かれてしまう孤独感。

ただ、振り返って、今回のケースを考えると、これまでのように知ったことをひけらかす様な、振る舞いでなく、心からその方の苦悩に共感する中から伝えられたと思う。

そうでなかったら、そんな知識を伝えることもなかったでしょうし。


そういう相手とダンスする感覚で伝えていくというプロセス。


すこし、出来たのかもしれないし、やはり、出来なかったのかもしれない。


まあ、今日は前者を尊重してその感覚を感じてみるとするか。

2014年11月26日水曜日

日本プロセスワークセンター「ワールドワーク レベル3」に参加して



人の成長や変化を規制させているものは何だろうか?

それは、環境や周りの人のせいではなく、実は自分自身の中にあるのに気づいていない自己、あるいは、自分の見たくない感情を揺さぶる存在に対する自分自身の態度そのものが、成長を阻んでいる。

それを図らずも、直観した三日間だった。

参加した目的は、これから人のキャリアや組織にかかわるコンサルタントとして、今後、実施するであろう研修やワークショップでの場づくりにおけるファシリテーターとしての自分自身の器を広げるためといえるだろう。

そして、自分のファシリテーターとしての器を広げるためには、自分自身の多様性に気づくこと。

頭の中では、わかっていたような気がする。

アーノルド・ミンデルの「ディープデモクラシー」を読み、まさに、ワークショップの場で起きてくるファシリテーターの葛藤は、大きく場に影響を与えるのだと。
そのためにあらかじめファシリテーターは自分自身の中の多様性とインナーワークをすべしと。

今回のレッスンでは、ファシリテーターとしてワールドワークの場に立てたことで、直接、ファカルティからフィードバックを得られることが出来、技術的な面での大きな学びにつながったことは確かだ。

しかし、それと同時並行で、積極的に参加者側として、ロールを買って出て、さまざまなロールからの声を発していくことで、参加者側に起きる意識変容を感じ取ろうとしてみた。
そして、そのことから、図らずも自分がこれまでずっと葛藤してきたエッジフィギアとこれからさらに避けられないであろうエッジフィギアを見出すこととなったのだ。

結果的に、そのことがファシリテーターとしてのスキルを向上させるという面以上に、今回、自分自身にとっては大きな学びにつながったといえるだろう。

一つ目のエッジフィギアとは、すでにこのレッスンが始まった時点から、すでにその関係性が生まれ、その時点で、すでに布置されていたのだ。

そして、その関係性が二日目の最後のワークの時に起こるべくして起こった。

途中までは、とあるテーマでのロールを取ったはずなのに、途中から自分とそのエッジフィギアとのエッジを超えるためのそれぞれのインナーワークとなっていたからだ。

まさに、ここ何年かの間、自分の中でささやかれていた声がリアルにささやかれ、いつの間にか場のロールから自分事に変容し、そのロールをとった側も、すでに何かを感じそのロールの中に自らをゆだねていたのだ。

ロールは言う。
「もっと、邪魔していたいよ。なんか、かまいたくなるんだよ!」
僕はといえば、
「そうか、邪魔していたかったんだね。まさか、そんな風に思っていたなんて思わなかった。きっと、君は自分を陥れるすごく恐ろしい存在だと思い込んでいた気がする。だから、場に君が見え隠れすると、見ようとしないで排除して先に進もうとしていたんだ。そんな、君に気づかなくて悪かったね。
でも、君がいるからこれまで何とかここまで生きてこれたことも忘れない。有難う!」
「そんな、感謝されても困ってしまう。そして、なにか寂しい気がするよ。」
「いいんだよ。そこにいてくれて。
また、思い切り引っ張ってくれればいいよ。そしてこれからも一緒に進もう。そして、もう、僕は君を邪魔者扱いしないよ。」

すでに、会社を辞めてこの場にいる時点で、このエッジは超えていたものでもあるので、自分自身にとっては、これまでその存在に感謝をして、また、一緒に歩いて行こうと許せる存在であることに気づき、しっかりとエッジを超えた自分を感じ、統合して完了することが出来た。

初日から、すでに関係性がおき、ロールを取ってくれた彼に帰りがけに心からお礼を言った。

そして、彼もいっしょにワークすることで自分の中に自分事として何かを受け取ったとの言葉をもらった。
図らずも、握手しての別れ際、「頑張ろうね!」と、ある病気を持つ人には、言ってはならないワードで励ましてしまったのだが、そこには、あの場を一緒に体験したからこそ、互いに頑張ろうといいあえる切なる思いから出た言葉だったのだと思う。ごく自然に受け取ってくれた。

それぞれにそのエッジフィギアとこれまで戦って来た者同士として。

最終日は、自分自身はすでに何となく完了感があるのと、寝不足からくる倦怠感から、距離を置いて参加する予定だった。そう、あくまで予定だった。

しかし、その新たなるエッジフィギアが出現したとたんに、自分の中で、もう何もエッジはないと思っていたことが、やはり幻想でしかなかったと気づくはめとなった。

何となく、当初から気になっていたその人がそのロールを取った途端、
激しく、自らもロールをとって、相手のロールを攻撃し始める私。
場自体も、もはや、ロールをとっていた人たちが個人の問題を扱い始めていたことで、一気に私の中もロールから個人の問題へと遷移していたようだ。

しかし、今回は自分のところで立ち上がったホットスポットにファシリテーターは気が付いていたようだが、メインのスポットに焦点をあてたことで、そのままの状態となり、私の中で起きていることに自分で対処しなければならないこととなり、その場はお開きとなった。

自分の中に湧き上がった、この反応への動揺とそれへの自覚。
                         
これからの向き合わなければならない葛藤はこれか!との思いがめぐる。

休憩時に先に帰る彼が僕に手を振ってくれた。
僕は寄って行って、
「今日は、ロールをとって出てきていただき有難うございます。おかげで、気づくことができました。」と彼にお礼を言った。
すると、彼もどうやら僕の中の反応に気が付いていたようで、
「私もずっとその問題については、取り組んできているんですよ。なかなか、難しいよね・・・。開業するんでしょ!ぜひ、頑張ってください!」
との言葉を頂戴することに。

最初、したり顔でコメントする彼を似非エルダーだと思っていたが、どうやら、あえて葛藤を引き起こす新手のエルダーのようだったのだ。

「見たいようにしか人を見ていない」
ことを反省すると同時に
「自分自身に自覚的である」
ことの大切さを実感したわけである。

ふたつのエッジはこれからも僕の中に居続けてくれる。ひとつは仲良しで。そして、もう一つへは、これから、さらに向き合って統合していくことになるのだろう。

私の中の多様性に気付くこと。そして、それを自覚し、意識的に統合すること。
                                        

これからも、これらとともにあらんことを願う。

レイモンドチャンドラー「長いお別れ」を読んで


 実家を片づけていてずいぶんたくさんの本を処分(ブックオフに送り、ほとんど値段がつかなかった)したが、捨てるのが惜しくてとっておいた10冊程度の文庫本の中の一つ。

たしか、読んだのは学生時代、チャンドラーという著者名のかっこいい響きに魅かれて。あるテレビドラマで主人公だったかが意中の女性に本屋で声かける時に、「チャンドラーがお好きなんですね!」なんて言って親しくなろうとしているのを見て、「・・・そうか!チャンドラーを読んでるとかっこいいのかあ?」という興味関心が湧いたことがきっかけだった気がする。

そんなことで、はじめに読んだのがたしか、「さらば愛しき女よ」そして、「長いお別れ」。でも、今から思うと、当時の自分の人生経験、社会経験が浅いことや、当時のアメリカ社会の雰囲気への洞察が足りないという背景もあり、主人公のフィリップ・マーロウの孤高な立ち姿や、バーでのウィットにとんだやり取りが、どうにも自分の中で立体的にイメージが出来なかったように思う。

なので、読後感としては、何となくマーロウのかっこよさは、感じ取れたものの、その深味というか味わいという点ではまだまだ浅く、若く生意気な自分としては「オレ、チャンドラー読んでんだぜ!いや、かっこいいね!マーロウは・・・」と自慢げに話す程度のものでしかなかった気がする。

それから、30年の時を経て、ストーリーの中の42歳のマーロウよりも、歳をとり、あらためて読むことで、何を感じるか・・・? たぶん、気になっていたから、処分せずに手元においたのだろう。

そして、あらためて、読んでみてどうだったのか・・・

友達であるテリーの謎の死について、外部からの圧力に屈せず自分の気持ちに正直であり続けることから一歩もぶれずにあり続ける立ち姿は、何とも象徴的でハードボイルドである。
そんな中にも、やぼったい男のスケベ根性も行間から読み取れ、わきがあまく、女の誘惑におぼれそうになるマーロウには、愛着を感じずにはいられない。

そして、どうしても、そんな切り口でしか見れない自分に許可しながらも、とどのつまり、今自分がこれから行おうとしているコーチングやコンサルティングにおいての学びとしては、

「自分の中に湧き上がる違和感にとどまり続けることこそが、クライアントの未解決なものと向き合える肝となる。」

ということではないだろうか。

テリーという友人に起きた理不尽な死への未完了感、納得いかないという個人の内的な課題を抱えたまま、他のクライアントの依頼に取り組むうちに、なんと、そのクライアントも同じ苦しみの中におり、そこで起きる数々の不可思議な出来事に巻き込まれる。

そして、真の犯人が明らかにされると同時に、事件の背後に潜む、戦争によって引き裂かれた離別という過去と、当時の上流社会の派手やかさのなかで、必死に生きていることへの矛盾と苦悩が明らかにされ、深い悲しみの中、事件は解決に向かう。

それは、マーロウの中で起きた感情の揺れがあたかも、他者にも乗り移り、増幅されて、その苦悩がさらなる悲劇を生むものの、登場人物のなかで浮き上がってきたそれぞれの未完了なるものが、その死とともに完了を告げる。

そして、明らかになったことは、過去の亡霊はやはり亡霊でしかなく、そこに、新たな発展はなく、何も生み出すことはないということ。

それは、ようやっと再会できた友人に、もはや同じ関係を築くことが出来ないことに気が付いてしまい、<ヴィクター>でギムレットを飲むことなくお別れを告げるラストシーンのように。


そして、ふたたび、マーロウはやぼったい探偵の日々が続くのだ。

専門を学ぶ中でプロ意識が萌えるために

昨日は、縁あってとある理系大学のスタッフの方に最近の学生のキャリア支援のお話を伺う機会があった。

話は多岐にわたり、最近の学生のキャリア形成意識や、就職後の専門職としてキャリアパスの問題。実際にインターンを実施するうえでのキャリア教育の視点での支援の状況など、伺う時間を過ごした。

その専門性で国家試験に合格させ、多くの専門職を輩出することがその大学の存在意義である。
また、学生も専門職としてのライセンスを得るためにあえてこの大学を選択していることが前提であり、その意味ではすでにキャリア形成支援は不要のものと思っていた。

しかしながら、就職については、ある程度需要があり、問題はないものの、そのあとのキャリアパスが描きにくく、給与は頭打ちとなり、単なるオペレーター、機能としてのみ扱われ、社会的なプレゼンスも相対的に低下する可能性があるというのだ。

そうならないためには、職域としての専門性をさらに高め、それが社会的にも認知されるようになることが求められる。

では、現在の学生は、そのような問題意識をもって、会社や公共機関に就職しているのだろうか?

どうやら、現状では、国家試験のさきにあるプロとしてなりたい姿を描き切らずに就職している可能性があるとのこと。

卒業後、自分の専門性をどのように高め、どのような方向性をもって、自分のキャリア=専門性を開拓していくかについて考えることへの意識が学生に希薄なのは気になる。

専門職になれて安定した収入があるという事は生きていくうえで大切なことだけど、非常に社会への貢献度の高い職業であるだけに、その職で自分自身が働くことに意義を日々感じ、課題を見出し挑戦し続けていく、そんな人材が一人でも多く輩出されることを願ってやまない。