2014年11月26日水曜日

レイモンドチャンドラー「長いお別れ」を読んで


 実家を片づけていてずいぶんたくさんの本を処分(ブックオフに送り、ほとんど値段がつかなかった)したが、捨てるのが惜しくてとっておいた10冊程度の文庫本の中の一つ。

たしか、読んだのは学生時代、チャンドラーという著者名のかっこいい響きに魅かれて。あるテレビドラマで主人公だったかが意中の女性に本屋で声かける時に、「チャンドラーがお好きなんですね!」なんて言って親しくなろうとしているのを見て、「・・・そうか!チャンドラーを読んでるとかっこいいのかあ?」という興味関心が湧いたことがきっかけだった気がする。

そんなことで、はじめに読んだのがたしか、「さらば愛しき女よ」そして、「長いお別れ」。でも、今から思うと、当時の自分の人生経験、社会経験が浅いことや、当時のアメリカ社会の雰囲気への洞察が足りないという背景もあり、主人公のフィリップ・マーロウの孤高な立ち姿や、バーでのウィットにとんだやり取りが、どうにも自分の中で立体的にイメージが出来なかったように思う。

なので、読後感としては、何となくマーロウのかっこよさは、感じ取れたものの、その深味というか味わいという点ではまだまだ浅く、若く生意気な自分としては「オレ、チャンドラー読んでんだぜ!いや、かっこいいね!マーロウは・・・」と自慢げに話す程度のものでしかなかった気がする。

それから、30年の時を経て、ストーリーの中の42歳のマーロウよりも、歳をとり、あらためて読むことで、何を感じるか・・・? たぶん、気になっていたから、処分せずに手元においたのだろう。

そして、あらためて、読んでみてどうだったのか・・・

友達であるテリーの謎の死について、外部からの圧力に屈せず自分の気持ちに正直であり続けることから一歩もぶれずにあり続ける立ち姿は、何とも象徴的でハードボイルドである。
そんな中にも、やぼったい男のスケベ根性も行間から読み取れ、わきがあまく、女の誘惑におぼれそうになるマーロウには、愛着を感じずにはいられない。

そして、どうしても、そんな切り口でしか見れない自分に許可しながらも、とどのつまり、今自分がこれから行おうとしているコーチングやコンサルティングにおいての学びとしては、

「自分の中に湧き上がる違和感にとどまり続けることこそが、クライアントの未解決なものと向き合える肝となる。」

ということではないだろうか。

テリーという友人に起きた理不尽な死への未完了感、納得いかないという個人の内的な課題を抱えたまま、他のクライアントの依頼に取り組むうちに、なんと、そのクライアントも同じ苦しみの中におり、そこで起きる数々の不可思議な出来事に巻き込まれる。

そして、真の犯人が明らかにされると同時に、事件の背後に潜む、戦争によって引き裂かれた離別という過去と、当時の上流社会の派手やかさのなかで、必死に生きていることへの矛盾と苦悩が明らかにされ、深い悲しみの中、事件は解決に向かう。

それは、マーロウの中で起きた感情の揺れがあたかも、他者にも乗り移り、増幅されて、その苦悩がさらなる悲劇を生むものの、登場人物のなかで浮き上がってきたそれぞれの未完了なるものが、その死とともに完了を告げる。

そして、明らかになったことは、過去の亡霊はやはり亡霊でしかなく、そこに、新たな発展はなく、何も生み出すことはないということ。

それは、ようやっと再会できた友人に、もはや同じ関係を築くことが出来ないことに気が付いてしまい、<ヴィクター>でギムレットを飲むことなくお別れを告げるラストシーンのように。


そして、ふたたび、マーロウはやぼったい探偵の日々が続くのだ。

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